氷川神社 須佐之男の正体
氷川神社は埼玉県さいたま市(旧大宮市)に鎮座するご聖域。
関東に一大勢力を誇る氷川信仰の総本宮で、武蔵國一ノ宮でもある格式高い神社!
今回も写真と共に、氷川神社の見どころや、スサノオの正体をお送り致します♪
なお、今回は長文です(笑)
氷川神社の見どころ
氷川神社までのアクセスは、大宮駅で下車、東口から徒歩15分ほどで到着です。
ただ、この場合、ニの鳥居からスタート…
一の鳥居からスタートしたい場合は、隣駅のさいたま新都心駅からとなります。
一の鳥居に到着しました!
鳥居と共に、緑のトンネルが素敵ですね。
そして、緑のトンネルから参道なのですが、その長さは何と2キロ!
『日本で一番長い参道』だそうです。
ニの鳥居
20分ほど歩くと、二の鳥居に到着!
めちゃくちゃ大きいです!
それも、そのハズ!
この鳥居、実は、関東最大級の木造鳥居!
まだ境内に入っていないのに、参道に続き、どれだけスゴい神社なんだよ~♪
楼門
さらに、歩くと三の鳥居へと到着。ここから境内に入ります。
氷川神社の境内は、関東でも屈指の広さ!
そして、広大な境内に堂々とそびえる建物。
それが…
朱塗りの楼門!
この大きな楼門は『紀元2600年』を記念して改築されたものです。
また、氷川神社で領布されている御朱印帳のデザインにもなっています。
舞殿
楼門をくぐると『お神楽』を奉納する舞殿があります。
この舞殿では、夏の東遊、花しづめ舞など、数多くの神楽が奉納されています。
大晦日には、巨大な絵馬も飾られますよ~
拝殿
こちらが氷川神社の拝殿。
堂々として立派ですね~
この氷川神社は、明治天皇が東京へ遷都後、関東で最初に参拝した神社です。
それだけ天皇家と縁の深い神社なんですね!
ところが面白いことに、明治政府が樹立する前まで、氷川神社はオンボロ状態…
しかも、境内には堂々とお寺が建っている…
そんな中、明治天皇が参拝すると言ったので明治政府は大慌て!
そんなこんなで、突貫工事でお寺をどかし、不眠不休で氷川神社をリニューアル。
その際、元々の社殿が、何故か南北に対して30度傾けて建っていたのですが…
理由を調べようにも、時間がなかったため、30度傾けたままリニューアル。
この形状は、現在でも継承されています。
それにしても…
南北に対し30度傾けた社殿…
あと、冷寒地でもないのに『氷の川の神社』
ん~不思議です!
本殿
氷川神社では…
奇稲田姫命
大己貴命
天照大神の弟である須佐之男(スサノオ)と、その家族をお祭りしています。
門客人神社・御嶽神社
氷川神社では沢山の摂社・末社があります。
その筆頭が門客人神社(左)
『荒脛巾(あらはばき)』と呼ばれる、古き地主神をお祭りしています。
その隣には、大己貴命と少彦名をお祭りする御嶽神社があります。
宗像神社
天照大神と須佐之男の誓約(うけい)により生まれた『三姉妹』をお祭りする宗像神社。
ご祭神は…
市寸島比売命
田寸津比売命
多起理比売は、大己貴命と結婚して、今では夫婦仲良く出雲大社に祭られています。
蛇の池
数年前までは禁足地だった蛇の池。
滔々と水が湧き、それを囲む森林がなんとも美しいです。
今では関東屈指のパワースポットです♪
須佐之男(スサノオの正体)
氷川神社は『関東エリア』で一大勢力を誇る氷川信仰の総本宮です。
さらに、出雲國のスサノオを祭る神社です。
でも…
なんで関東エリアに一大勢力を誇る神社で、出雲國のスサノオを祭っているのでしょう?
狩猟採集から稲作へ
東京のJR中央線・西国分寺駅の周辺には、2000年前から清水が湧き出る泉があります。
それが、お鷹の道・真姿の池湧水群。
かつて、縄文人は『真姿の池』で喉を潤し、獣で腹を満たしていました。
しかし、人口増加と共に、狩猟採集だけでは食料を賄いきれなくなります。
そんな時、突如、稲作の技術を持った人物がやってきます。
縄文人はその人物に導かれ、豊富な水がある多摩川へと移住します。
多摩川へと移住した縄文人は、指導者の元、さっそく稲作に着手します。
そこで得られる恵みは、狩猟採集のそれとは比べものにならかったことでしょう。
しかし、多摩川は豊富な恵みを与えると共に洪水・氾濫という破壊をもたらしました。
そこで、危険な多摩川を離れ、より安全で、より稲作に適した地へと移住します。
移住先に選んだのは、広い平野と湿地がある見沼(埼玉県さいたま市~浦和市)
見沼は洪水・洪水の危険が少なく、しかも、稲作に適した土地。
結果、食料受給は安定し、人口も増加。
縄文人は、稲作の技術を教えた人物と共に、見沼に古くから坐す神を祭ります。
その古き神こそ荒脛巾(あらはばき)
さらに、見沼という広大な湿地帯を生み出す『肥沃な川』を神として祭ります。
その神名こそ…
肥沃な川 → ひよくなかわ → ひ・かわ
つまり、氷川とは、見沼を生み出す肥沃な川を神格化したものだったのです!
広い平野と湿地を得た王
見沼を生み出す偉大なるヒカワ。それこそが氷川神社のコアです。
しかし、ここで1つ疑問が出てきます。
それが須佐之男(スサノヲ)
どうして、ヒカワ=スサノオなのでしょう?
その答えとなるものが『広い平野と湿地』と『驚くべき観測技術』です。
まず、氷川神社は単一の神社ではなく…
与野 中山神社
浦和 氷川女体神社
この3社で構成されています。
そして、氷川女体神社は、冬至の日の早朝、日の光が当たる正確な場所に鎮座してます。
また、氷川神社は、夏至の日の夕刻、太陽が地平線へと沈む正確な場所に鎮座してます。
中山神社は、春分・秋分の日の正午12時に、日の光が当たる正確に場所に鎮座してます。
この春夏秋冬の【太陽の道】は、社殿同様、南北に対し30度傾斜しています。
さらに、これだけではありません。
古代中国には『天心十道定穴法』と呼ばれる王都選定の奥義があります。
これは『太陽の道』である南北に走る線と、東西にある聖山の中心点に王都を建てる。
風水の根幹であり、ごく一部の人間しか知り得ない奥義でもあります。
氷川神社も『太陽の道』である30度傾斜した南北線。
さらに、東の筑波山と、西の富士山とを結ぶ東西線。
この中心点に『正確』に鎮座しています。
かつて、関東平野にある見沼という湿地を、巨大な稲作地帯に変えることの出来た人物。
冬至、夏至、春秋分における『太陽の道』を正確に観測出来た人物。
さらに、天心十道定穴法という風水の奥義を知り得た、希有な人物。
弥生時代後期、日本において、これら全てに該当する人物は…
ただ1人しかいません。
紀元前3世紀、不老不死を望む秦の始皇帝をだまし、3000人もの男女と、多くの技術者を従え、五穀の種を持って、東方に船出。
『広い平野』と『湿地』を得て、王となり、秦に戻らなかった男がいる。
その名は方士・徐福。
彼こそが氷川神社で『須佐之男』と呼ばれる人物なのです。
まだ原始的な暮らしを営み、かつ、各集落が100人規模だった日本。
徐福は最先端の技術をもって、3000人規模で日本にやって来ました。
当時の日本人からして見れば、恐怖の侵略者にしか見えなかったことでしょう。
しかし、血なまぐさい争いが起こった形跡は見当たりません。
徐福は、平和的に日本人と融合し、各地方を開拓していきました。
始皇帝の恐怖政治に否定的だったのことが、その理由なのかも知れません。
そして、方士として徐福が最も求めたもの。それは、玉座ではありません。
方士として最高の仕事である『王都選定』
広い平野と湿地を得て、方士としての仕事、天心十道定穴法に叶う王都を作った徐福。
死後、人々は、徐福と肥川を重ね合わせて、偉大なる神として祭ります。
さらに、徐福の遺言により、富士山に葬り、徐福は富士山から王都の繁栄を見守ります。
是を以ちて悪ぶる神の音、狭蝿如す皆満ち、万の物の妖悉に発りき。
しかし、王都は大和朝廷の侵攻を受けます。
その侵攻と共に、徐福の遺骸が坐す富士山が歴史的な大噴火を起こします。
侵略的やり方に否定的だった『徐福の祟り』だったのかも知れません
さらに、徐福は南海トラフという大災害で、大和朝廷を震え上がらせます。
氷川神社・スサノオへの変貌
広大な関東平野と大湿地である見沼を得て、徐福は王都を作りました。
死後、関東においては、徐福は稲作を教えた『氷川神』として崇められます。
また、畿内においては、噴火と地震を起こす『浅間神(富士山)』として恐れられます。
徐福が築いた王都は、富士山による火砕流によって地中深くに消え去りました。
その後、朝廷が創作した出雲神話によって、歴史からも消されます。
しかし、人々の『徐福に対する想い』までは消し去ることが出来ませんでした。
何故なら、スサノオという偽名であっても、未だ氷川信仰は絶大な人気を誇るのだから…
氷川神社のまとめ
バチカンやメッカは、あくまで聖地であり、都市として栄えたことは一度もありません。
出雲國も、あくまで鎮魂の聖地でしかなく、都市として栄えたことは一度もありません。
つまり、出雲大社が出雲にあるからといって出雲王朝が出雲に在った訳ではないのです。
かつてのポンペイのように…
シュリーマンのトロイの木馬のように…
神話でしかなった、殷、周王朝のように…
徐福の王都も、いつの日か発掘されることを夢見ているのかも知れません。
氷川神社の写真ギャラリー
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氷川神社へのアクセス
氷川神社(武蔵國一ノ宮・旧官幣大社)
〒330-0803
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407